わたしの子ども観・社会観〜本当に対等な関係〜

12月になりましたので、次の本についての記事を書きたいなと思っているのですが、もう2回くらい、『遊ぶヴィゴツキー』という本について書きたいことが残っていますので、まずはそれを仕上げてから次に進みたいと思います。
塚田ひろみ 2024.12.04
誰でも
よく言われる「子どもは私たちの未来だ」という表現には不愉快になる。善意の表現であるとはわかっているが、これは「在ること」と「成ること」を分離し、若者を創造者としてではなく、大人が作ったものを受動的に受け止めるものとみなしているように聞こえるのである。人間の、過去、現在、未来の歴史は、年齢とは関係がない。大人と子どもは、一緒に文化を作り上げる。大人がこのことを忘れれば忘れるほど、不幸なことに、子どもたちは大人の再現としての未来でしかなくなるのである。
『遊ぶヴィゴツキー』P131

こちらは、ロシアの心理学者ヴィゴツキーの研究成果を再評価しようとしたロイス・ホルツマンの言葉です。

私が10代前半から感じていた、大人と子どもの関係性の違和感と、こうあってほしいという理想の関係性は、こちらの文章ととても合致していると感じています。

大人は、社会を生きる先人であり、既に創り上げられた社会のメンバーとして、新しいメンバーの子どもたちを迎え入れる。

既にあるものに感謝もしながら、子どもたちの新しい感じ方と相互作用しながら、社会を創り続けるような関係性。

そのとき、大人も子どもも、対等に社会を構成する一員となれるのではないか、ということ。

日本では、子どものことをとても大切にしていると思う側面がある一方で、それは、対等な関係とは少し違うと感じることもあります。

どこか、子どもは守るべきもの、助けられるだけの存在と見ているのではないか?そうした想いは確かに”善意”なのですが、真剣に子どもという一人の人間存在と向き合っているかどうか?というと、そこにはまだ準備が整っていないと感じる点もあります。

私自身、幼少期に「子どもは対等に扱われていないのでは」と感じていた問いを、様々な活動を通して届けていきたいと計画中です。

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