言葉は、自分の内面を表現するものではない
「言葉は、内面を表現するものでは決してない」としたら、どんなことを想像しますか?
もし思考し/話すことが持続的な社会的完成活動でないなら、子どもは話し手としてパフォーマンスできない(そして話すことを学ぶこともできない)。そこで、もし、話すことが考えることの完成活動ならば、もし、この活動が社会文化的空間における持続する創造であるなら(つまり精神が社会の中にあるなら)、「完成する人」は考えている必要はないということになる。他者が完成してもよい。
久しぶりに、子どものこと、発達のことについて書いていきたいと思います。
こちらの引用は、教育の世界では著名なヴィゴツキーという研究者・実践者について再考する本です。とても可愛らしい表紙に、ガツンとくる内容で私は好きなのですが(好きすぎて、気が付かないうちに2冊買っていたみたいです^^;)、やっぱり少し難解だなぁと思い、私なりに再々考して書いています。
今回は、言葉というものについて。
言葉はなんのためにあるのか?
ある人は(多くの人は)、自分の内面を表現するためだと答えるのではないかしら?と思います。
自分の考え、感情を言葉に置き換えたものを(完全には置き換えは無理だけれど)言葉として発話するものだと。
ですが、ここではその言葉の機能はきっぱりと否定されています。
そして、私は激しく共感しました。
言葉とは、その場・その空間について起きていることについて、投げかけの一つ。
積み木の一片のようなもの。そこにいる人が(たくさんでも、2人でも)、だれかの置いた積み木に、継ぎ足して、完成していくもの。そこにある、共通のイメージを創り上げていくプロセス。
ここでは、積み木を置くということが「パフォーマンス」と表現されていますが。
最初に言葉を発した人(積み木を置きはじめた人)と、それを完成まで導く人は違っても良い。
そのとき、様々な人と、子ども同士、大人を交えて、言葉でパフォーマンスをしているうちに、その場に参加している人の表現力は育っていく。言葉の豊かさも、聴くということも、誰かを理解するということも。
こうした言葉を通したパフォーマンスを繰り広げている時、言葉を使えない子どもが排除されることも、「子どもは、だから、未熟である」と階層ができることも無いのではないでしょうか?
自分ひとりの言葉ではなくて、誰かと一緒に創り上げていくものだというとき、誰かを攻めたり、誰かの間違いを指摘したり、それがもとで争うことも無いのではないでしょうか。
きっと、「もっとこうしたら?」「そういうことなのかな?」と提案や投げかけがあり、気づきながら、一つの答えを探していくという、創造的で平和的なプロセスになるのではないでしょうか。
やはりこれは、芸術のプロセスなのだと思いました。詳しくは明日書こうと思います。
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