ダメ出しではなくて、パートナーシップを

批判についての捉え方は、どこで育つのだろうか?と考えたときに、もしかして小学校だったりするのかなと思いました。批判て、嫌なものでなくてもいいですよね。
でも、それが苦い経験にならざるを得ない、そういう教育があるのかなと思いました。
塚田ひろみ 2025.01.23
誰でも

今日、ある小さなお子さんの教育施設で、外部の方に指導・点検をいただくという場面に居合わせていました。

監査とか、調査とか、そういう趣旨のものではなく、運営上改善したほうが良い点を、指摘いただくのが目的です。

もちろん、ベストな状態に整えることは大切なのですが、評価を受ける側の心構えに、私自身はとても違和感を感じるのです。

100点を取るのが目的ではなくて、それをきっかけに見直しをしたり、改善をしながら当日を迎えたり、それでも足りないところは教えていただいて、もっといい環境をつくるためにやることだと思います。指摘を受けたからと言って、それに従うことが良いわけではなくて、自分たちが大事にしていることを守るためならば、指摘と違っても貫く決断をしたり、逆に意見として伝えても良いわけです。

ですが、何も指摘を受けないことを目指す。指摘は減点。100点を取れるように準備を出来なかった施設は悪いという自己評価。

でも、それでは協力的なパートナーシップは結べないのではないかな。

誰かが要求したわけではないのに、こうして無意識に合わせ込むことって、やっぱり、公立学校文化で作られましたでしょうか。と、今日で最後になると思いますが、こちらの映画のことをもう一度だけ書いてみたいと思いました。

映画の中には、クラスの誰かを評価するとか、指摘をする場面が描かれています。そして恐らく、子どもたちはその目的を理解しないまま、その手順を踏んでいます。

だから、評価がすごくあやふやになります。そして、それは多くの場合、ダメ出しになります。受け取る方も、どう受け止めていいか苦慮しますし、前向きで建設的な批判として受け取るよりも、嫌な苦い経験として、避けたくなるのではないでしょうか。(ちなみに、このダメ出し文化も日本特有みたいです)

眼の前の相手をもっと良くしようという意思が芽生えていたら、もう少し指摘する側の解像度も上がるはず。出来ていない事実は、多くの場合、自分もよく知っている。どうして出来ないのか?が知りたい。例えばあなたの縄跳びの長さは、あなたの身長にあっていないから長くしたほうが良いよと、そこまで伝えてあげられたなら、「そうか」と気がついて相手にも感謝できるでしょう。

そんなときに感じる感謝から、パートナーシップが生まれるのではないかと思います。

最後まで読んでいただき有難うございます。
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