こどもの見えている世界。視野と感覚。

ふと思い出した子ども時代の風景。思い出というよりも、自分が、どのように世界を認識していたのか?ということについて。
塚田ひろみ 2024.12.22
誰でも

以前、「子どもとの関わりについて教えてほしい」とご依頼を頂いたことがあるのですが、私自身は専門性がとても高いわけでも、現場経験が豊富なわけでもありません。

私自身が学んで、研究してきたこと、自分自身の経験から語れるものであればいいですよということで、お引き受けをして、何を話そうかしらと考えていました。

そのとき、思い出したのが、自分が4歳〜5歳くらいの世界の見え方でした。幼稚園で過ごしていたときのことを中心に、家で過ごしていたときのこと。

記録映像でみるようにはっきり、鮮明ではないということは覚えています。

自分が見える、感覚で捉えられる範囲というのがとても限られていて、せいぜい2メートル先くらいまでしか見えていなかったと思います。それより遠いところは、ぼんやりとして、白っぽい時も黒っぽい時もあるという感じ。

自分でも、自分の世界がどうなっているのか把握できていなかったのだと思います。

突然、眼の前に遊びたいと思っていた友だちが現れたり、逆に迷子になるときなども、きっとこうした視野の狭さが引き起こしているのでは?と思ったり。

大人になった今、すごくはっきりとものが見えるなぁと感じます。

子どもの感覚と大人の感覚、子どもの視野と大人の視野、絶対的に違うという前提に立つと、伝わりやすくなったり、すれ違いも避けることができる。

私が幸運なのは、そんなときの感覚を覚えていることで、今でも子どもに意識を寄せることが出来ることかもしれません。

だからこそ、子どもと同じように傷ついたりして大変だし、そもそも記憶に刻まれているのは、幼稚園時代が”いい思い出”ではないからなのですが。

そんな事を考えていたら、感性の正体みたいなものもちょっと見えてきたので、それは明日に書きたいと思います。

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